徘徊する横浜の朝 (その4)

外人墓地の入口近くに「生麦事件の犠牲者の墓」と書かれた石碑が目に付く。外から見た限りでは2人分の墓石しか認識できなかったが、よく見ればそれらの真ん中に低い石板があるのがわかる。ネットで調べた限りでは、真ん中のものがリチャードソンの墓で、向かって左がマーシャル、右がクラークの墓らしい。マーシャルとクラークは事件後に、ヘボン医師(ヘボン式ローマ字の発明者)の治療を受けて回復し、横浜で天寿を全うしたとのこと。



生麦事件 2007/12/22
GR1v (GR 28mm/F2.8)
Fuji Acros100@100

生麦事件(なまむぎじけん)は、江戸時代末期の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件である。京急本線生麦駅近くに事件の石碑が残る。江戸から京都に向かう途中であった薩摩藩島津忠義(当時茂久)の父・島津久光の行列が生麦村に差し掛かった折り、前方を横浜在住のイギリス人4 人(ウィリアム・マーシャル、ウッジロップ・チャールズ・クラーク、チャールズ・レノックス・リチャードソン、マーガレット・ボロデイル)が乗馬のまま横切った。薩摩藩士達はイギリス人4人に対し、身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人には意味が通じず、久光の乗る駕籠の近くまで馬を乗り入れてしまう。これに怒った奈良原喜左衛門ら一部藩士が斬りかかり、リチャードソン1人が死亡、マーシャルとクラークの2人が負傷した。なお、ボロデイルは無傷だったが後に精神に異常をきたし、程なく死んだ。』Wikipediaより抜粋
Zorg: 横浜 2007/12/22 #31, #32, #33, #34, #35