人間を撮ることについて思、想する

南青山

昨日(ホントは、さっき)は、アラーキーの『写真の旅』を読んでの感想をちょっと書きました。アラーキーは人間至上主義者で、風景なんて背景に過ぎない、刺身のツマ程度のもの、としか考えていないのですが、この本の中では「風景」を少々見直しています。でも、結局は人間へと戻ってしまいます。
人間の撮り方は、大概はお姉さんと仲良くなって撮っちゃうんですけど、標準レンズで「居合い抜き」のようにすれ違いざまに撮ったり、至近距離から望遠レンズで顔だけ切り撮ったりと、あえて思考を排除して無我のスナップを狙ったりもしています。昨年、写真展を拝見した中込コイチさんの写真を連想してしまいました。
最近、山城屋さんのHPを知りました。人間ばかり撮っている森山大道風という印象を受けました。「眼」だけで写真を撮るとこんな風になるのかなとも思いました。HPのタイトルも「視線」ですから、そうなんでしょう。
同じようにただ撮っているだけなのに、アラーキーや中込さんのスナップにはゲージツを感じるけれど、山城屋さんのにはゲージツを感じませんでした。
何が違うのでしょうか?ゲージツって何なんでしょうか?
ブレッソン、エルスケン、ハービーさん、内田さん・・・。どのスナップにもゲージツを感じます。そこにはデフォルメされた日常が写っているような気がします。決して「生」ではなく、「加工」されたものです。ゲージツ的スナップは、ただ撮っているようでいて、しかし、単なる記録では無いということなのでしょうか。
では、私のスナップはゲージツなんでしょうか?

思、想の中断も込めて、今日の写真は、「風景」にしてみました。ブルース・ウェバー展へ行ったときに撮ったものです。


南青山 2005/10/13
Leica M3 + Summicron 50mm/F2
Fuji Acros100@100, SPD(1:1)